無頭人の一休み(2021)
インスタレーション(《無頭人は一休みしようと衣と沓を内臓化している》、《接ぎ木されし内臓》、《無頭人》)


 理性の狂気に抵抗した思想家、G・バタイユが創刊した雑誌『アセファル』。「アセファル(acephale)」とは「頭がない」を意味しており、この雑誌には「頭」いいかえれば「理性」から人間を開放しようとする意思がこめられていました。
 一人称視点で自分自身の肉体をみるとき、頭はみえず、見えるものは胸部以下であるので、それはまるで「アセファル=無頭人」的な身体と言えるでしょう。客観的な人間の身体像が主要な視覚文化を生きている私は、このことを今まであまり考えてきませんでした。
 だからこそ、ここに散らばるいくつかの作品は、この思考を背景にしたものです。他者から見つめられる身体ではなく、私が見る自身の身体。そのときに否応なしに感覚してしまう内臓。内臓は外部のものを取り込みつづけているので、無頭人的な身体においては内側と外側は曖昧になります。私は実在する、この曖昧さをもっと感覚したい。そしてこの感覚を用いて変化していく他の諸々の存在との連関を支えにしながら生きる(=つくること、あるいはつくらないこと)ことはどのようなものなのか試みたい。この作品はその実践の成果でもあります。

《無頭人は一休みしようと衣と沓を内臓化している》(2021)
映像(Loop)、Tシャツ、靴

二枚のディスプレに映像が流されている。この映像の片方には、Tシャツを破いて地面にかける行為、そしてもう一方には、脱いだ靴のなかに枯れ草や葉っぱを詰めていく行為が一人称視点で映される。それらの映像の時間のスピードには緩急がつけられており、視線に合わせて揺れるイメージとともに視覚をとおして触覚的な感覚を刺激する。ガラス越しには映像内で使用されたTシャツと靴が置かれており、その通常の時間と映像のなかでの時間とがインスタレーションのなかで混在している。
 身体の内外を隔てている衣類を、破いて地面を覆ったり、土や草に馴染ませていった。このように衣類の内外を曖昧にしていくことを〈衣類の内臓化〉と呼び、パフォーマンスをおこなった。パフォーマンスの記録は一人称視点で記録し、記録された作家の無頭人的身体を触媒にして見るものの身体との接触を試みている。

《接ぎ木されし内臓》(2020)
虫、電子部品、ガラス、アクリル樹脂、木(作品設置場所の付近で手に入るもの)

さまざまな昆虫と電子部品とが混入する透明な腸型の器官を、木に接ぎ木した。昆虫とテクノロジ―などを含む、私たちをとりまくものの関係を〈エコロジーの内臓〉として具象化している。
 頭にGo Proを、耳にバイノーラルマイクをとりつけて虫を捕まえる様子を撮影していたとき、虫と電子デバイスが出会う瞬間に立ち会った気がした。もちろん虫は、私が電子デバイスをつけていることに気づいてない。しかし、虫と電子デバイスという、たがいを知覚しえないものが現実世界で共存しているがゆえに生じる関係性はどのようなものだろうか。直接的ではなしにしろ、テクノロジーと虫との間に、私たちの通常の意識が及ぶ範囲外での関係性がある。この複雑さが私たちの生きるエコロジーだと言える。このエコロジーにおいて潜在している活動――虫とテクノロジーの間接的な関係というような――をエコロジーのもつ内臓活動として私はイメージするようになった。

《無頭人》(2021)
紙に筆と墨

頭のない、あるいは見えていない人間の身体を墨で描いたドローイング。フランスのシュルレアリスム運動に参加した画家、アンドレ・マッソンの描いた「アセファル=無頭人」をモチーフに、石や木のごとく存在する肢体を描いた。中央に描かれたさらけ出されている概念的な内臓は《接ぎ木されし内臓》にも現れている。