Jamscape、それを作品ではなく空間として考えてみる。
さて、渋谷はとても洗練された街なのだが、いつでも工事をしているイメージがある。首都東京の他の駅前、同じ副都心の新宿や池袋に比べてもその印象が強い。(特に、かつて荒川さんが作品を発表した東京芸大のある上野とは全く異なる。)向かう方角がわかっていても、迂回路に次ぐ迂回路でいまいちまっすぐ進めないのだ。人間が人間にとってより便利、よりわかりやすい場所とするための工事なのだろうが、それで沢山の人々があちらへこちらへ、右往左往している様子が、自分の中の渋谷だ。
Jamscape Insectcageが開催されているRoom_412に向かう道のりも真っ直ぐではない。歩道橋を幾度か渡り、再開発でぽっかりと空いた街角を左にみながら上り坂がうねる先、そこに建つ古めのビルの階段(エレベーターはない)を登った一室に、ようやく展示はある。渋谷駅から数分、その謳い文句は事実なのに、妙に遠く感じる。息を切らしてしまった。少し昔の建物に特有の、厚く重めの金属製の扉を開けてみる。
7月に入ってすっかり蒸し暑いアスファルトの空気は、その扉の向こうでガラリと変わる。その真っ暗な部屋で、思いのほか冷房がよく効いているということも大きいだろうが、なんといっても、暗い中でプロジェクターが眩く映し出す映像と、周りから聴こえる音だ。その音の在り処を見まわしてみると、プラスチックの虫かごが並べられている。座り心地のよい座布団なので、少しばかり座ってみてみることにする。
スクリーンに投影されている映像は、ちょうど作者の視点からみえる谷津の景色をさまよっている。その舞台は、完全な自然地形でもなければ、街や農地のようによく人の手が入ったものでもない。周囲から聴こえる音も、機械的なノイズのようで、でも虫の鳴き声のようでもあり、虫かごの並べられた景色を巡る主観は、投映されている映像と今自分のいる現実の間で行き来する。ふと、ここはいったいどこなんだろう?そう気になってまた立ち上がる。
すると、スクリーンをめくった奥に、こちらは対照的に白く明るい部屋がある。ところでこの空間では一瞬、妙な錯覚に至る。少しだけ、ミニチュアの世界に入り込んだ気になるのだ。天井が最近の建物に比べ少し低いことと、白という色の膨張効果がそうさせるのだと思うが、一見伝統的なギャラリー、あるいはそれをこの部屋に再現しようとした空間でありながら、作品を前に、等身大の人としてではなく、少し、それこそ虫のように、なった気分にさせる。
今回の展示のためにつくられた作品は、この洗練された部屋に展示されている。作品をみせるためのしかけ、絵の描かれている木版や、木の土台も綺麗に用意されている。一方でそのうえの絵具やガラスが作り出す輪郭は、作者の言うように、有機的な線を描く。フリーハンドと言うとありきたりだが、つまり身体的、人間的(humane)な線なのである。どうも懐かしさを覚える。自分の周りからうっすら、消えつつあるものなんだろうか。
考えを巡らせながら、スクリーンを通って前の部屋に戻る。この間ずっとその音が聞こえる。映像の向こうに見える景色は、自分自身も大きな虫かごから外を覗いているかのようだ。展示の部屋、その物理的な空間としての出口は入口と同じ、重い扉を開けた先だ。だが映像と、スクリーンをめくった向こうの空間、その残像を帰り道、抱えてゆけば、展示を訪れた人にとって、渋谷の街の空間は少しだけでも、変わったように映るに違いない。
ビルを出てすぐの急坂カーブ、登ろうとした車がたまたま立ち往生していたので、誘導してあげた。展示の小部屋だけでなく、このビル、通り、街中、そしてそこを往く虫のような自分たち。一見、理路整然とさせられている街も、自由な流体としての自分たちが蠢く空間なのだ。少し窮屈な時代の、少し窮屈な都市の中で、少しだけ自由になれた気がした。それがJamscapeかもしれない。
(2021年7月11日 田中 ジョン 直人)