はじめは興奮と驚きをもたらす異物として迎えられた鉄道も、現在では日常のなかへスムースに組み込まれている。人間は鉄道を受容する精神と身体の技術を習得し、鉄道は人間に合わせてその機構を変化させてきた。お互いがもとめることで異物は内在化していき、あたらしい生命へと変容していく。
そうした相互的なメディア観でアクションカメラを手に取ってみる。このカメラがとらえる映像は人間の視野角に肉薄し、電子安定化技術によってオーバーなブレが抑えられている。人間に付着するこのちいさな機械をみることは、人間の身体に浸透しようというこの欲動を知ることだ。それを受け入れてアクションカメラを身体にとりつけたとき、変容する感覚とはいかなるものだろうか。
ここでは、アクションカメラを頭にとりつけて撮影された映像をみる経験を現象学的アプローチによって分析し、その感覚を考察したい。
2020年7月現在、Youtubeで閲覧数順に「Headcam」とサーチすると、上から銃撃戦、パルクール、空中落下、つづいてスヌーカーなどが表示されている。そのどれもが、身体を介して緊張や集中、興奮のただなかにあり、現実へのつよい没入が求められる体験である。外界との対応でいっぱいいっぱいになるそれらの体験は、ふりかえり難く、これらの映像が撮られたことには、一回きりのあの没入体験と再会したいという撮影者の欲求が反映されている。そして閲覧数トップは3000万回弱再生されており、多くの視聴者がそうした没入の体験に興味をもつことが同時にわかるだろう。これらの映像体験は我々の野生の身体をうずかせる。
平面に表示されるこの映像に没入できるのは、アクションカメラのまなざしが日常的な知覚に近づいているからだ。それはアクションカメラと身体が共同することでもたらされる。アクションカメラは人間の眼を模倣する。視野角や手振れ補正だけでなく、ハイフレームレートによるスロー映像によって、人間が極度に集中しているあの時間までをも再現する。当然、その眼のようなカメラを頭にとりつければ、私たちの日常的な知覚の運動に近いものがうつる。たとえば、その映像があちらから向こうへ走る車を追尾するのなら、それをみる我々もその車を追っている。我々はいままでの知覚の学習から、映像の揺れ、ブレ、移動の順序や速度などの運動から多くのことをよみとるだろう。
アクションカメラの映像は我々が経験している実在の空間での体験に似たものであるが、固定されたフレームに縛られているという点でことなる。主観的な運動をともなう映像にもかかわらず、みることの能動性が制限されることで生じる不安は、フレームのうちから多くの情報を得るための注意力を喚起させる。そして視聴者の身体に直接的に、映像にはほとんどうつらない身体との同化をもとめるのである。
ここまで、アクションカメラの映像が、その没入させる力で視聴者の体内に野生の身体感覚を生じさせるのをみてきた。アクションカメラでも静止画の風景を撮れるという意見もあるだろうが、ここで重要なのはアクションカメラを我々が持ったときに、なにを撮影したくなるかということだ。それがまさに感覚の変容なのだから。
参考文献
伊藤俊治著『陶酔映像論』(青土社)2020年p.136, pp.178-180
井上雅良著「鳥瞰のモダニズム」『映像学第3巻』(創樹社)1986年pp.48-61
久保明教著『機械カニバリズム』(講談社選書メチエ)2018年
ゲオルク・ジンメル著、北川東子訳『ジンメル・コレクション』(ちくま学芸文庫)1999年pp.72-73
ジョン・バージャー著、伊藤俊治訳『イメージ-Ways of Seeing』(PARCO出版)1994年