ヴォルフガング・シヴェルブシュの『闇をひらく光』を読み、技術と文化と社会について思考するなかで目を留めずにはいられなかったのが次の引用部だ。目に見えない敷居とはなんだったのか。

 ガス灯が工場の外に出て一般に使用されるようになるには、その前に、目に見えない敷居を越えなくてはならなかった。別の言い方をするなら、イギリスの産業開拓者たちとはまるで異なる視覚と経験の背景から、ガス灯をみてゆく必要があった。それがおこなわれたのはパリである。(シヴェルブシュ 1983、邦訳 p.20)

 ガス灯ははじめ19世紀初頭のイギリスで発展した。ただし木綿工場などの工場用照明としてである。無尽蔵であるかのような石炭。そして石炭を発熱量のより大きいコークスへと加工する際に、いたずらに放出されていたガスを活用することでガス灯は発展していったのだ。産業にとって有益であることが当時のイギリスにおけるガス灯開発の重要な背景としてあった。それではパリにおけるガス照明の発達の背景は、イギリスのそれとはなにが異なっていたのか。その違いをシヴェルブシュが、熱ランプを開発したフィリップ・ルボン(1769-1804)を論じたなかに見ることができる。

 ガス照明(パリにおける。引用者注)は、産業発展の延長線上にあるものではなくそれ自体に価値があるもの、つまり人類の文明進歩に寄与するものだった。(シヴェルブシュ 1983、邦訳 p.21)

 シヴェルブシュはここで産業一辺倒ではない、人類のこの仕事への意義を指摘している。つまりパリにおいてはガス灯を一般家庭のものにしようという夢があった。
 ただし、ガス灯を一般家庭のものにしようというのは、ガスのもつ流れるという物性を活かして自然をひとつの組織にしたいという巨大な夢の、とある一面に過ぎない。このようなネットワークの夢をはじめに描き、狂人的な熱意で推進したのがガス灯の初期の発展と並行するように生きた空想社会主義の思想家、サン=シモン(1760-1825)である。ピエール・ミュッソの『サン=シモンとサン=シモン主義』にふれながらこの夢を簡単に素描してみたい。サン=シモンがその独自の夢あるいは思想を研究するあいだには、さまざまな彼の経験があった。

 運河計画、エンジニア兼軍人の経歴、そして企業家活動を通じて、実践面で彼から常に離れなかったのがネットワークという考えであった。彼の心を動かした流体――つまり運河の水、人体の血、そして社会体における貨幣〔流動性〕と知識――には変化はあったが、ネットワークというこの問題意識の点では一貫して変わらなかった(ミュッソ 1999、邦訳pp.21.22)

 サン=シモンの目をとおして世界をみると、あらゆる事物はネットワークとしてあらわれてくる。「物質の流れの性質を研究する流動学」(ミュッソ 1999、 邦訳 p.45)によってえられた成果のアナロジーによって社会的なものを分析し、さらに社会のなかに移植しようとするのだ。その最たる例が人間の身体である。身体にある血管や神経といった「管」は、サン=シモンの思想のなかで社会の組織の構造として移し替えられていくことになるからだ。この「管」による社会組織のネットワーク化によって、身体を評価するように社会を評価することができるようになる。

 生命現象は、身体の管状の基本構造とこれらの管を流れる液体循環という二つの事実によって説明される。この二つの条件は互いに補い合い、必要としあう。容積/流通(容積は管状の基本構造、流通は管を流れる液体循環のこと。引用者注)というこの対は、生体との類比から望ましい社会体制、つまり産業体制も規定していくことになる。(ミュッソ 1999、邦訳 p.55)

 組織のネットワークをかたちづくる「管」の容積と流通によって、その組織の「能力」をはかることができるようになる。そして「能力」によって社会を評価し創造していくことで、社会主義的な発想が生まれるのだ。こうして、いままでの自家生産的な照明にわかれを告げて、ガス灯の工場の外での普及という夢も育っていった。なおこの夢はパリにおいては、フリードリヒ・アルバート・ウィンザーのモール街におけるガス照明の宣伝活動にその萌芽を認めることができるが、皮肉にもこれを実際に発展させたのは産業主義的なイギリスであった。

 おわりに、サン=シモンの夢の一端をみてきた私たちには、フランス――それが大袈裟であればサン=シモン――の視覚と経験の背景が、メタファーやアナロジーによってばらばらにあった諸概念が混ぜられることでできた「夢」に彩られていることが分かるだろう。すなわち人体と国土を同じように見て、ネットワークとして組織された「管」の容積と流通を検討することでえられる「能力」という概念で、社会をそれまでとは違った仕方で経験するようになるのがそれだ。こうしたサン=シモンによる夢のなかで、ガス灯の普及における目に見えない敷居は発見され、発見されたがゆえに乗り越えられていった。

参考文献
ヴォルフガング・シヴェルブシュ著 小川さくえ訳(1988)『闇をひらく光』法政大学出版局
ピエール・ミュッソ著 杉本隆司訳(2019)『サン=シモンとサン=シモン主義』白水社