境をまたぐことがためらわれる、このごろ。ここから先は緊急事態宣言だから、急を要しないのになぜあなたいるの?と、それで、私たちはできるだけ自宅にいるんです。

人生の後半、自宅と庭から一歩も出ずに生きた画家、熊谷守一。熊谷は「石ころをじっとながめているだけで、何日も何月も暮らせます」と語った。おそらく、自宅から一歩も出ずとも、閉塞感や息苦しさはなかったのだろう。熊谷が描いたもののおおくには、小さな生きものたちが単純化され描かれている。それらの絵は清々しい。けして大きくはない平面に、風通しのいいかんじ、スケールの大きいかんじ、がある。この開放感はなんだろう。小さな生きものと熊谷との境が蕩けてしまっているのか。

そのような開放感を熊谷のこの《熊ん蜂》によく感じられる。だからこの絵に、ちいさい世界から開放感を生みだす、その不思議のわけを探りたい。

和紙に墨と彩色で描かれた熊ん蜂は、画面の上部いっぱい占めている。前足と後ろ足をのばして、翅をいっぱいにひろげ、わずかに左斜めに向いているから翔んでいるようだ。頭部と腹は青く、胸部は黄色に彩色されて、体毛に反応して塗られている。そのうちの翅と胸部は、墨で輪郭線をあたえられているのだが、おそらくこれは、筆の先のちびたもので描かれていて、はじまりからおわりまで、似た太さで描かれている。わずかにゆがむ筆跡と、ところどころの線のつまずき。制御されているのが上手いのだとすれば、熊谷のひく線は「へた」なのだろう。

しかし、この線にはちょっとしたあやがある。線は熊谷の思索をしのばせるだけではない、その外側の世界との綱引きに、あるニュアンスが広がっている。絵をあらためて見る。熊谷は熊ん蜂をえがくのに、それを忠実に描くことにこだわらない。熊ん蜂の印象を、手が他者のものであるかのようになぞっている。また、熊ん蜂の大きさを無視して、いかにも手に無理のないスケールの運動にまかせているようでもある。このため、手はもののようであり、揺れやつまずきを生じさせている。

そこに、身体の二重性がある。いいかえると、熊谷の思索を再現する身体と、未知の線を引きずり出してくる身体。このふたつが、絶妙に作用し合いながら線がひかれていく。開放感のわけはここにあるはずで、つまり、熊ん蜂を身体の二重性を通過させ描くことで、絵は思索のみの産物から脱出する。この熊ん蜂は、恣意の手から器用に逃れ続けているだろう。

今日、さまざまな規制や監視による、境ばかりが気になる。とはいえ、熊谷はずっと「ステイホーム」していたにも関わらず、身体を世界に解かしてくことで、世界を開放感あるものにした。そこには、大きな社会にふりまわされない、身体のひとつの姿があるはずだ。熊谷の《熊ん蜂》から、自分のところにたまたまやってきた、ちいさな生き物と、たまたまある自分の身体との交歓に、無尽蔵な可能性が見えるのだから。

◆参考文献

熊谷守一『へたも絵のうち』平凡社(2000)

熊谷守一『虫時雨-熊谷守一の素描・水墨画』世界文化社(1997) 58-59 建畠晢「線の遅延」『ドローイングの現在』国立国際美術館(1989) 22-24